石仏石神を求めて

おもに石仏・石神などの石造物を探訪

天明飢饉供養塔(弘前市紙漉沢・路傍)(津軽地方の天明飢饉供養塔 #3)

青森県弘前市紙漉沢字山越の路傍(紙漉沢橋の西詰めから南へ約100メートル)(探訪日:2022年9月23日)

紙漉沢橋。アニメ『ふらいんぐうぃっち』の聖地です。

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上の写真の地点から相馬川を上流に向かって100メートルほど歩くと天明飢饉供養塔があります。

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刻銘「文化三丙寅年四月八日建之(1806) / 紙漉沢邑中 / 卯辰两年 爲餓死霊魂請精霊等 廿三回忌迫□□ / 種子〈バク〉」

解説板もありました。ここでの名称は飢餓供養塔です。

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解説板  飢餓供養塔 藩政時代二六〇年の間には、津軽の領民に対して大自然の猛威が襲いかかり、ほぼ四年おきに六十数回の不作、凶作、飢饉がありました。その中でも特にひどかった天明の飢饉は、天明二年(一七八二)の凶作、同三年の異常低温・日照不足によって引き起こされたもので、特に三年は、八月中旬まで殆んど快晴をみることなく、霜の降りるありさまで大凶作となりました。
 その後、飢えが進行して餓死者が発生し、当時の藩の人口約二十五万人のうち三分の一にあたる八万人の餓死者が出たといわれています。
 碑文の「卯辰」とあるのは、天明三年が発卯、四年が甲辰の年であったためであり、旧相馬村にはこのような供養塔が六基ほど残されています。

 

毎度、こういった説明を見ると当時の惨状が目に浮かび、いたたまれない気持ちになります。

飢餓供養塔のすぐとなりには三界万霊塔があります。
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刻銘「安永二癸巳年八月十□〜□(1773) / 五所村」

五所村と刻まれた部分の右側にも何か刻まれていますが、判読できませんでした。

飢餓供養塔の地図