石仏石神を求めて

おもに石仏・石神などの石造物を探訪

青面金剛像庚申塔と淡嶋大明神塔ほか(横手市増田町増田・皀莢神社)

秋田県横手市増田町増田字縫殿の皀莢神社(探訪日:2023年3月24日)

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f:id:nagatorowo2:20230810000706j:image石仏が並んでいます。
f:id:nagatorowo2:20230810000728j:image青面金剛庚申塔

刻銘「銘不詳」
f:id:nagatorowo2:20230810000806j:image御尊容
f:id:nagatorowo2:20230801234246j:image三猿はほぼ摩滅

 

f:id:nagatorowo2:20230801234234j:image淡島大明神塔(淡嶋大明神塔)。淡島神は東北地方を中心に所謂「お子安さま」として広く信仰され親されています。

刻銘「萬延二酉三月三日(1861)」


f:id:nagatorowo2:20230801234230j:image庚申供養塔

刻銘「寛延四辛未歳閏六月廿五日(1751) / 種子〈ウーン〉」


f:id:nagatorowo2:20230801234226j:image養蚕神塔(養蝅神塔)

刻銘「ケ□(ロ?)三年ウ三月十六日」

f:id:nagatorowo2:20230801235834j:image「ウ」は卯を指すのでは、ということで説明がつきますが、「ケ」はいまひとつ分かりません。寛政や文政の「政」が摩滅により「ケ」に見えているのかもと思いましたが、だとしたらその上に寛や文の字があってもおかしくないはずなのに確認できませんし、風化により消えた感じもありません。

ただ「◯◯三年」であることは間違いなく、江戸時代の元号で、三年に当たる年に卯年が回ってくるのは慶長、延宝、天明慶應の4つです。

以上のことから浮かび上がる仮説として、短絡的な考えかもしれませんが、慶應という元号は他と比べて大変画数が多く、石に刻むには困難と判断したため、「慶應」を「ケイオウ」と刻んだのではないでしょうか?

また、この養蝅神塔は先に載せた淡嶋大明神塔と同じ石材で建てられていて、慶應は萬延と近い年代であるので、延宝や天明などよりは辻褄が合うと思います。

かなり強引な説になってしまいましたが、わりかし妥当ではないかと考えております。

判然としない点は、ケの下にあるカタカナの「ロ」のような字。これを「四」と捉えれば下の三年の銘と合わせて、間の空白に「十」が入って四十三年となり、明治四十三年と考えることができます。しかし、それだと「ケ」の字の存在が宙に浮いてしまいます。

結論を言うとよく分かりません。もしお分かりになる方がいればご教示ください。


f:id:nagatorowo2:20230801234223j:image三吉神社塔。太平山信仰により建てられた石造物です。当ブログで扱うのは初となります。

刻銘「明治二十年天四月八日(1887)」

皀莢神社の所在地