石仏石神を求めて

おもに石仏・石神などの石造物を探訪

庚申塔と馬頭観音塔(新宿区西早稲田3丁目・源兵衛共同墓地)

東京都新宿区西早稲田3丁目の源兵衛共同墓地(訪問日:2023年12月26日)f:id:nagatorowo2:20240115001153j:image早稲田セントラルハイツの西方に位置する墓地です。
f:id:nagatorowo2:20240115001142j:image門を開けてすぐの無縁仏前に民間信仰塔2基が安置されています。向かって右から紹介します。
f:id:nagatorowo2:20240115001146j:image文字庚申塔


f:id:nagatorowo2:20240115001310j:image

f:id:nagatorowo2:20240115001313j:image

刻銘「延宝三乙夘秊霜月十二日(1675) / 奉供養庚申二世安樂處 / 願衆 醍醐清兵衛(以下人名略) / 種子〈バン〉」f:id:nagatorowo2:20240115004219j:image三猿像


f:id:nagatorowo2:20240115001149j:image馬頭観音塔(馬頭観世音菩薩塔)f:id:nagatorowo2:20240115001340j:image刻銘「明治四拾五年一月廿七日(1912) / 関口兼次郎 / 馬頭観世音菩薩

f:id:nagatorowo2:20240115001945j:image墓地の一角に墓地の由来を記した碑もあります。内容を読むと上掲の庚申塔についても言及していました。

由来碑 源兵衛共同墓地の由来
 源兵衛共同墓地の名称は、この辺りの江戸時代の地名、武蔵国豊島郡野方領源兵衛村に由来します。
 この村は、元和元年(一六一五)大坂夏の陣の戦いに敗れた豊臣家の遺臣小泉源兵衛と鈴木喜右衛門、関口新蔵、醍醐兵左衛門の四名が移り住み、荒地を開墾したことが始まりとされています。その後、元禄年間に上戸塚村から独立して、源兵衛村と名乗りました。
 村落において、故人の供養のために墓碑を建てるようになったのは、江戸時代中期以降といわれています。この村でも、村域の北東のはずれ、北に神田川を臨む段丘の上に村の墓所を設け、寛文十二年(一六七二)に没した小泉源兵衛もここに葬られました。この村落墓地が、現在の源兵衛共同墓地の発祥となりました。
 この墓地には、現在、六十余基の墓が建立されており、墓石や墓誌銘に記された戒名は三百を越えています。そのほか約四十の無縁仏墓石が残されています。また、延宝三年(一六七五)に、関口傳兵衛ら八名が建立した「供養庚申垂安楽」銘の庚申塚も現存しています。
 開基以来三百年以上の歴史をもつこの墓地にも、都市化の波が押し寄せ、周辺の宅地化が進みました。そこで、昭和六十一年(一九八六)に、墓地の環境整備に着手し、墓地内の水道・物置等の設置、樹木の伐採、無縁仏の整理などを行いました。
 平成四年(一九九二)にこれらの整備が終了して、現在の姿に至っています。
平成二十一年二月吉日
源兵衛紀念会

「二世」を「垂」と判読したようです。

源兵衛共同墓地の所在地