石仏石神を求めて

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伝・天明飢饉供養塔(弘前市五代・才兵衛地蔵堂)(津軽地方の天明飢饉供養塔 #38)

青森県弘前市五代字早稲田の才兵衛地蔵堂(訪問日:2023年9月10日)f:id:nagatorowo2:20240306125347j:image上五代バス停のそばにある地蔵堂です。堂宇は以前は木造でしたが、近年に建て替え工事が行われたようです。「才兵衛地蔵堂」の額の前に人丈ほどの石塔が建っています。飢饉供養塔です。
f:id:nagatorowo2:20240306125351j:image天明飢饉供養塔


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刻銘「文化七午天二月十七日(1810) / 五代 門前 築館 邑中 / 為無縁菩提」

この石塔は資料中に「餓死供養碑」とのみ記載があり、それ以外の由緒や解説は皆無でした。宝暦あるいは天明の飢饉時に亡くなった人々の菩提を弔うために建てられたものと考えられます。

ただ、紀年が文化年間ということもあり、当ブログでは天明飢饉供養塔として扱いました。


おまけf:id:nagatorowo2:20240306125401j:image地蔵堂の内部。机やテレビなどが備えてあることから地域の人たちが集まる憩いの場として使われているようです。f:id:nagatorowo2:20240306125354j:image才兵衛地蔵尊。丸彫の地蔵菩薩立像で、津軽地方によく見られる化粧地蔵の体裁をしています。このお地蔵さんには大きく分けて二つの伝承があります。

一つは、器量の良い即ち容姿の優れた美男子であった才兵衛という人物が、方々より求婚を申し込まれるものの義理が立たぬという理由でその全てを拒み、ついに出家し一生を通して妻帯せず生涯を終え、その精神に感銘を受けた後世の人々が堂宇を造営し、永く才兵衛を祀ったというもの。

もう一つは、五代村の草創開拓の偉人である農民・才兵衛をその頌徳のため祀ったというもの。

どちらの由緒であれ、才兵衛は徳の高い人物であったことが分かります。f:id:nagatorowo2:20240306125358j:imageあげられたお供えものは大変多く、現在でも厚く信仰を集めているようです。

才兵衛地蔵堂の所在地