石仏石神を求めて

おもに石仏・石神などの石造物を探訪

透関の馬頭観音像(諏訪郡富士見町富士見・路傍)

長野県諏訪郡富士見町富士見字原ノ茶屋の路傍(訪問日:2024年4月8日)f:id:nagatorowo2:20240409215319j:image中部電力パワーグリッド富士見変電所の東方、旧甲州街道の伸びる三叉路を直線に進み、そのまま道なりに行くと個人宅があり、そのそばに何やら石仏が安置されています。f:id:nagatorowo2:20240409215340j:image近づくと馬頭観音2基がお目見え。左手のは特に立派な石仏です。
解説板もありました。f:id:nagatorowo2:20240409215322j:image

解説板 富士見町指定有形文化財
透関の馬頭観音
ここは、旧甲州街道(道中)近くの通称観督窪と呼ばれる地籍である。
透関は宝永二年(一七〇五)、乙事村三井伊左衛門の長男に生まれ、通称は藤助といい、晩年には茂右衛門と名乗った。農業を営むかたわら近村の麻などを買い集めて、甲府の問屋などに送っていたが、後には甲府に出て詫問屋という商家の養子となり、酒・醤油などの物産商を営み、諏訪地方との交易も多かった。
 当時、原之茶屋付近の甲州街道は現在より西寄りを通っていたが、道路状況が悪く、ことに春先にはぬかるみとなって人馬の通行が難渋した。透関はこの改修を思い立ち、自分は甲府に住んでいたので乙事村の弟達の連名をもって藩から改修の許可を受け、安永九年(一七八〇)、私財を投じて工事を始めた。特に現在の塚平から原の茶屋北口までの間は新道を開くなどして、改修工事は翌天明元年(一七八一)六月に完成した。透関は竣工にあたって、改修の記念と人々の道中無事を祈願して新道の道中に馬頭観音を建立した。これが今に残る石仏で、総高一四六センチ、二段の台石の上に三面六臂の忿怒像の観音様が安置されている。
台石の裏に
乙事村
三井伊左衛門 同 藤右衛門 同 重左衛門
同 権右衛門 五味三郎兵衛 一嶽信翁庵主
甲斐無禅透関居士
天明元辛丑六月上澣
と刻まれており、一族がこぞって改修に協力したことがうかがわれる。また、乙事三井家所蔵の諸費用帳には「馬頭観音七両二百九文石工其他共、道がかり五拾参両二分十九文、切石ツケ馬乄百一匹、人足千八百六十人、飯炊き百十二人」との記録が残されている。
平成十七年三月
富士見町教育委員会


掲載はまず右手のものから。f:id:nagatorowo2:20240409215325j:image馬頭観音塔(馬頭観音立像塔)①

刻銘「文化五戊辰歳五月日(1808)」f:id:nagatorowo2:20240409215329j:image御尊容(立像、一面二臂、柔和相)、その他像容・彫像(一馬像)


f:id:nagatorowo2:20240409215332j:image馬頭観音塔(馬頭観音坐像塔)②


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刻銘「天明元辛丑六月上澣(1781) / 乙事村 三井伊左衛門(以下人名略)」f:id:nagatorowo2:20240409215336j:image


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御尊容(坐像、三面六臂、忿怒相)、その他像容・彫像(一馬像、宝剣(三叉戟?)、斧、宝輪、宝棒)

f:id:nagatorowo2:20240409221708j:image右側面からの1枚。品質の高い石材を用いての造立、かつ良好な保存環境のためか塔形は完存に近く、大変素晴らしい石仏です。

所在地