石仏石神を求めて

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天明飢饉供養塔(弘前市湯口・墓地)(津軽地方の天明飢饉供養塔 #12)

青森県弘前市湯口字一ノ細川の墓地(探訪日:2022年9月23日)

墓地入り口からすぐのところに墓塔とともに安置されています。

f:id:nagatorowo2:20230807132627j:image天明飢饉供養塔

刻銘「文化三丙寅天二月日(1806) / 湯口村中 / 二十三廻忌建立 / 夘辰两歳 餓死精霊有縁無縁菩提塔 / 種子〈キリーク〉」


f:id:nagatorowo2:20230807132625j:image背後には解説板も設けられていました。

解説板 飢餓供養塔
 藩政時代二百六十年の間には、津軽の領民、とくに農民に対して大自然の猛威が襲いかかり、ほぼ四年おきに六十数回の不作、凶作、飢饉があったといわれるが、その中でもとくにひどかった天明の冷害は、二年(一七八二)
からはじまり、三年の場合は八月中旬まで殆んど快晴をみることなく、霜の降りるありさまで大凶作になり、翌四年も皆無作であったという。
 人々は食物を奪い合い、盗賊、殺人、放火が横行し、人間を食うなど飢餓地獄と化したのである。
当時の藩の人口は約二十五万人といわれるが、その三分の一の八万人の餓死者が出たといわれる。
 碑文の「卯辰」とあるのは、天明三年が癸卯、四年が甲辰のためであり、相馬村にはこのような供養塔が六基ほどある。

墓地の所在地