石仏石神を求めて

おもに石仏・石神などの石造物を探訪

東京都23区の庚申塔 #50(杉並区天沼1丁目・路傍)

東京都杉並区天沼1丁目の路傍(訪問日:2023年11月18日)f:id:nagatorowo2:20231208150443j:image五叉路に面したところに石仏や石塔が並んでいます。f:id:nagatorowo2:20231208150805j:image解説板も設けられています。

解説板 民間信仰石造物
 ここに建立されている石塔は、宝永元(一七〇四)年銘・元文五(一七四〇)年銘の庚申塔享保十五(一七三〇)年銘の地蔵塔、宝暦九年(一七五九年)銘・享和三年(一八〇三)銘の百番観音供養塔です。いずれも天沼村の村民が現世での幸運と来世での往生安楽を願って造立したもので、当時の人々の信仰心の一端を伝えています。
 庚申信仰は、人の中に棲むという三尸の虫が眠っている間に抜け出して、天帝にその人の罪科を告げ、早死にさせるというのを防ぐために、庚申の夜は身を慎んで眠らずに過ごすという民間信仰です。江戸時代には、各地に講がつくられ、庚申塔の造立も盛んに行われました。この二基の庚申塔青面金剛・三猿等を浮彫りにした一般的な塔で、講中による造立です。地蔵菩薩は人間の苦を除き、楽を与え六道衆生を救済する仏として地域の人々の信仰を集めました。また、村境や辻に建てられ、境の守護と村の安全の守護を行う仏として大切にされてきました。
 百番観音信仰も江戸時代には庶民の間に浸透しました。特に関東地方では西国・板東・秩父の百ヶ所霊場巡拝が盛行し、巡拝記念あるいは巡拝と同じ功徳を得るための百番観音供養塔が造立されました。この享和三年銘の供養塔は百番観音信仰と光明真言信仰とを一体にしたもので、区内では数少ない作例です。
 これらの石造物は地域の区画整理の際に集められたもので、庚申塔は南
方の桃園川辺の路傍、地蔵塔と供養塔は西方の熊野神社際の路傍から移転されたものです。なお、石造物隣の区画整理記念碑は、整理の完了した昭和十三(一九三八)年に建てられたものです。
令和二年二月
杉並区教育委員会


f:id:nagatorowo2:20231208150428j:image右の塊から紹介します。向かって右からです。
f:id:nagatorowo2:20231208150439j:image百番供養塔①・光明真言塔(巡拝塔、光明真言供養塔)

刻銘「享和三癸亥星十月吉日(1803) / 俗名 朝倉半之丞 願主 法名 榮根法師 / 奉納西國坂東秩父百箇處爲二世安樂子孫繁昌也 奉唱満光明眞言二百萬遍先祖代々成三菩提也 奉供羪光明真言一百萬遍唱主慈光妙清信女 / 阿弥陀三尊種子〈キリーク・サ・サク〉」

山状角柱型

f:id:nagatorowo2:20231208150435j:image地蔵菩薩塔(地蔵菩薩立像塔)

刻銘「享保十五庚戌歳十月二十四日(1730) / 奉造立地藏菩薩現當二世諸願成就攸 / 種子〈カ〉」

御尊容(立像、舟形光背型)


f:id:nagatorowo2:20231208150431j:image百番供養塔②


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刻銘「宝暦九己卯天十月吉日(1759) / 武州多摩郡天沼村 / 奉納 坂東 西國 秩父 百番供養爲二世安樂也 敬白 / 種子〈カ〉」

山状角柱型

f:id:nagatorowo2:20231208150416j:image続いては左の塊です。
f:id:nagatorowo2:20231208150424j:image青面金剛庚申塔

刻銘「宝永元甲申九月廿三日(1704) / 奉造立庚申供養石塔一基二世安樂処」

御尊容(立像、一面六臂、合掌型、笠付角柱型(唐破風))、その他像容・彫像(日天月天、瑞雲、三叉戟、矢、宝輪、弓、三猿)


f:id:nagatorowo2:20231208150420j:image青面金剛庚申塔f:id:nagatorowo2:20231208185141j:image刻銘「元文五庚申歳十月廿三日(1740) / 武刕多麻郡天沼村 講中十四人 / 奉造立庚申供養二世安樂所 / 種子〈ウーン〉」

御尊容(立像、一面六臂、合掌型、笠付角柱型(唐破風))、その他像容・彫像(日天月天、瑞雲、三叉戟、矢、宝輪、弓、二鶏、一邪鬼、三猿)

所在地