東京都足立区千住2丁目の金蔵寺(訪問日:2023年8月16日)正門
門の手前に当寺院の解説板が設けられています。
遊女供養塔とはあまり聞き馴染みのないものです。
解説板の通り、門を入ってすぐ左手に石仏石塔が並んでいます。向かって左のものから載せます。
祖師塔(空海)
刻銘「紀年銘不詳(未確認) / 一千年弘法大師御遠忌」
こちらが件の遊女供養塔。遠忌碑と廻国供養塔も兼ねている稀有な石造物です。遊女供養塔(六十六部廻国供養塔、遠忌碑、六字名号塔)
刻銘「三界万霊六親眷属七世父母 / 大乗妙典六十六部廻國供養 / 萬人講中二世安樂 / 享保十二年未十月吉日(1727) / 願主方譽西順 / 武州下足立郡渕江領千住掃部宿 俗名三谷彦兵衛 / 七十七 宏善 / 一千五十遠忌塔 / 日□講(日待講?) / 南無阿弥陀佛」※日待講は無理のある判読です。
足立区観光交流協会の「あだち観光ネット」HP(2024年1月20日閲覧)にはさらに詳細な由来が記されています。
千住宿の飯盛旅籠(めしもりはたご)で働き、病気などで死亡した飯盛女の霊を供養するために、当時の楼主や宿場の人達によって建立されました。
基壇には大黒屋や中田屋、佃屋などの宿の屋号が見え、夜の接待を担った遊女たちの戒名も無数に刻まれています。
上掲の解説にもあるように千住地域には遊廓が軒を連ねていたので、ここに刻まれた者以外にも無縁仏と同等に葬られた数多の遊女がいたことでしょう。
不謹慎かもしれませんが、このようなあまり表には出しづらい歴史を静かに、しかし確実に後世へと伝えてきた点でこの石塔は大変興味深いです。
阿弥陀如来像庚申塔
刻銘「□〜□天己卯□〜□ / 千住弐町目 / □〜□二世安樂所」御尊容
石塔群の右端は飢饉供養塔です。天保飢饉供養塔
刻銘「天保十一年七月(1840) / 安政五午八月廿四日(1858) / 妙道信女 砂村蔵田儀左衛門 / 世話人 永野長右衛門(以下人名略) 若者中 / ……飢えて下民に食なし……この地に死せる者八百二十八人……三百七十人を金蔵寺に葬り…… / 無縁塔」※塔身右側面のくずし字および同左側面の銘文は判読できませんでした。
左側面の銘文の内容は以下の通り(引用元:上掲HP)。
お救い小屋で食糧が与えられましたが、千住で病死・衰弱死した者は828人にのぼり、千住の4つの寺院に葬られました。
基壇には本塔の建立に携わった人々の名が刻まれています。掃部宿や小塚原町といった町名・地名も見受けられます。
あと背面は確認できなかったのですが、どうも銘文だけでは解説板にあるように天保九年の建立と断定できません。
しかも「あだち観光ネット」HPには「天保10年に建てられました。」と食い違っているため、よくわかりません。
参道を進んだ先にも石塔があります。向かって左の植え込みの中のものから。
巡拝塔(巡拝供養塔)刻銘「大正八年八月歓喜日(1919) / 紀念碑(?)敷地全□〜□終之 / 紀念神佛霊所巡拝 / 日光山根来山加蘇山冨士山箸藏山那智山金華山大山大日向山築波山琴平山御嶽山大雄山鹿雄山妙義山三峰山御嶽山冨貴野山榛名山大江山髙尾山月山善光寺湯殿山四國坂東羽黒山西國御府内高野山秩父相馬宮島淡路島房外運河竹生島松島江の島 / 観音霊場三十四ヶ所 / 千住町三丁目 篠田勘次郎敬白」正面下部には弘法大師坐像が線刻されています。線香立てには「信者中」とあります。
今度は右側の石塔です。
鹿島大神塔(六十六部廻国供養塔)
刻銘「寛延三午天三月吉日(1750) / 講中 / 奉納大乗妙典六十六部供養 廻國願當寺弟子善龍 / 俗名掃□〜□ / 鹿嶋大神宮」
それぞれ特徴ある石塔だらけで、書いててとても楽しい記事になりました。
金蔵寺の所在地