石仏石神を求めて

おもに石仏・石神などの石造物を探訪

天保飢饉供養塔と元禄飢饉供養塔(弘前市東和徳町・専修寺)

青森県弘前市東和徳町の専修寺(訪問日:2023年9月6日)f:id:nagatorowo2:20231122115825j:image専修寺は閑静な住宅街の一角にある浄土宗寺院です。参拝する前に、山門をもゆうに越す塔高の石塔がまず目に飛び込んできます。
f:id:nagatorowo2:20231122115829j:image実際に見てみると分かりますが、とんでもないデカさです。普段から石造物を見てきている自分でも、その高さ、厚みに驚いたのを記憶しています。
f:id:nagatorowo2:20231122115840j:imageそばには木製の解説板も設けられています。

解説板 餓死供養塔 二基

餓死供養名号塔 弘文第五十七号

弘前市指定有形文化財(歴史資料)

餓死供養題目塔 弘文第五十八号

弘前市指定有形文化財(歴史資料)

 江戸時代、津軽の地は米作りの北限でした。

津軽は寒冷なためたびたび冷害に見舞われ、特に、元禄・宝暦・天明天保年間は大飢饉となり多くの餓死者を出しました。津軽一円の村々の墓地などには、今でも餓死者の供養塔を見ることができます。

 専修寺付近は、飢饉の際に施行小屋を設けたり餓死者を葬った場所に当たり餓死供養塔や庚申塔などの民間信仰碑があります。

 境内には二基の餓死供養塔があります。一基は、享保二年(一七一七)に建立された元禄の飢饉の餓死者を供養するためのもので、和徳町内有志によって建てられ、津軽最古の餓死供養塔です。

 もう一基は、嘉永六年(一八五三)に建てられ、総高約四mと津軽でも希有な大きさを誇り、岩木町杭止より四十ヶ村約七千人の手で運ばれたものです。

 二つの塔には、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」と浄土宗の「南無阿弥陀仏」が刻まれ、宗派や身分を越えた津軽の人々の厚い信仰心を知ることができます。


f:id:nagatorowo2:20231122115832j:image天保飢饉供養塔(餓死供養名号塔)


f:id:nagatorowo2:20231122121943j:image

f:id:nagatorowo2:20231122121947j:image

f:id:nagatorowo2:20231122121950j:image

f:id:nagatorowo2:20231122121953j:image

刻銘「嘉永六年癸丑八月吉祥日(1853) / 南無阿弥陀佛 / 天下和順 日月晴明 / 有縁無縁 三界萬霊 速得無上果 / 月窓山丗主 良示〈花押〉 / 施主 工藤玄正倅 三國屋久左衛門惟徳 / 大川要吉 瀧屋幸次郎 吉田屋馬助」

「手傳 百人 東長町 / 三百人 茂森新町 / 四百人 和徳町 / 弐百人 總町若者 / 五百人 和徳村 / 八十人 高﨑村 / 百人 堅田村 / 四百人 撫牛子村 / 百人 大久保村 / 八十人 津軽野村 / 百人 百田村 / 三百人 外瀬村 / 百人 瀬野袋村 / 弐百人 小澤村澤目 / 三百人 悪戸村 / 弐百人 湯口村 / 百人 黒瀧村 / 弐百人 福村 / 弐百人 外﨑村 / 弐百人 寺内村 / 弐百人 小比内村 / 弐百人 高田村 / 百人 小栗山村 / 百人 日沼村 / 七十人 大袋村 / 五十人 新山村 / 百人 新谷村 / 五十人 尾﨑村 / 六十人 堰根村 / 五十人 紙漉澤村 / 百五十人 八幡﨑村 / 三百人 杉館村 / 百人 五所村 / 八十人 藤﨑村 / 七十人 蒲田村 / 七十人 石川村 / 八十人 川合村 / 弐百人 高屋村 / 五十人 新里村 / 百五十人 境堰村 / 發願主 工藤慶助 當庵良身得順代 松嶋伊兵衛 / 世話人 田中屋要次郎 和徳町若者中 川村興五郎 川村紋右衛門」

解説板の通り、背面の銘文から、40もの町村に住む人々がこの供養塔の造立に際して、普請といった諸々の手伝いを行ったことが窺えます。

また、施主銘にその名が見える三国屋久左衛門(工藤惟徳)は、弘前に住まう商人かつ歌人で、数千円を投じて紙漉座の建設に携わったり、砲器などの兵火数十挺を藩に献上するなどしたことで知られます。

ちなみに、ここまで見てきた方の中には、「「天保」銘や「飢渇・餓死」銘が見当たらなくない?」と思われた方もいると思います。しかし実は本塔の造立された嘉永六年(1853)は天保の大飢饉の発生から十七回忌に相当する年であり、寺伝においても天保年間の飢饉供養塔であるとされることから、天保飢饉供養塔として扱われているのです。

f:id:nagatorowo2:20231122130757j:image続いて、隣接して置かれた石塔群の中にある元禄飢饉供養塔を見てみましょう。ここには庚申塔や太子講碑などもありますが、紹介は次の機会に回します。
f:id:nagatorowo2:20231122130801j:image元禄飢饉供養塔(餓死供養題目塔)


f:id:nagatorowo2:20231122130909j:image

f:id:nagatorowo2:20231122130913j:image

f:id:nagatorowo2:20231122130905j:image

刻銘「享保二丁酉年八月二十七日(1717) / 爲餓死精霊抜苦與樂也 / 爲六凡四生佛果菩提 / 南無妙法蓮華経

こちらは明確に飢饉供養塔と分かります。

専修寺の所在地