石仏石神を求めて

おもに石仏・石神などの石造物を探訪

六十六部廻国聖惣墓(京都市東山区松原通大和大路東入る三丁目下る小島町・宝福寺)

京都府京都市東山区松原通大和大路東入る三丁目下る小島町の宝福寺(訪問日:2024年2月23日)f:id:nagatorowo2:20240305152424j:image京都市特有のめちゃくちゃ長大な住所に位置する時宗寺院です。付近には清水寺八坂の塔といった一大観光スポットが点在しているため、当寺院の前の道(東大路通)も人が多く往来していたものの、自分以外の参拝者はいませんでした。f:id:nagatorowo2:20240305152417j:image車がやっと2台入るかぐらいの広さの境内に、覆屋を伴って石仏と石塔が安置されていました。左の石仏は京都によく見られる光背型の地蔵菩薩塔です。
f:id:nagatorowo2:20240305152409j:image石塔については解説板が設けられていました。
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解説板 六十六部廻国聖惣墓
 「六十六部廻国聖」とは、正しくは「日本廻国大乗妙典六十六部経聖」といい、平安時代後期より滅罪と豊穣祈願に『法華経』六十六部を写経し、これを日本全国(当時六十六ヵ国)の霊仏霊社に納経するために廻国した巡礼者のことをいう。
 日本全国六十六ヵ国を巡ることにより、より多くの功徳を積もうとしたもので、西国三十三所観音霊場巡礼納経や四国八十八ヵ所お遍路巡りなどの納経帳に派生する。つまり御朱印の起源となる宗教儀礼である。
 時が流れ江戸時代には、罪人が滅罪のために六十六部廻国に身を捧げた。その巡礼者たちに生涯終焉の場を当山(鶴林山宝福寺)が「六部墓」として提供した。
 この墓石は天保十二(一八四一)年に建墓されたものである。

解説板に基づけば巡礼達成の記念塔ではなく、廻国聖たちの供養塔、すなわち墓塔としての造塔であったことが分かります。このような「六部墓」は日本各地に見られますが、明確な由緒が伝わっていたり、石塔がほぼそのまま残されている例は稀です。

一応、当ブログでは廻国供養塔の一つとして扱います。f:id:nagatorowo2:20240305152420j:image六十六部廻国供養塔(三界万霊塔、六十六部廻国聖惣墓)


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刻銘「天保十二丑年辛(?)正月建之(1841) / 後天平(?) □誉西應真教法(?)子(?) □□見信士中胞敬(?)爾(?)行西安譽光全法子 六十六部回國惣墓 / 先亡一切精霊 / 三界萬霊」※右側面の判読に自信がありません。

宝福寺の所在地