石仏石神を求めて

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徳島県の庚申塔 #6(三好郡東みよし町足代・中ノ段集会所)

徳島県三好郡東みよし町足代の中ノ段集会所(訪問日:2024年8月10日)f:id:nagatorowo2:20240822203527j:image中ノ段集会所(足代中部集会所)は中ノ段集落の北部に位置しています。

私が訪問した当時、地元の人たちがなにやら会合を開いていたらしく、邪魔にならぬよう撮影はスピーディーに済ませ、足早に去りました。
f:id:nagatorowo2:20240822203530j:image青面金剛庚申塔

刻銘「正徳四甲午天正月十七日(1714) / 上中段惣中下中段惣中」f:id:nagatorowo2:20240822203524j:image御尊容(立像、一面四臂、宝剣・ショケラ型、笠付角柱型(唐破風))、その他像容・彫像(日天月天、宝輪(?)、三叉戟)f:id:nagatorowo2:20240822203533j:image二猿像と二鶏像

東みよし町の広報誌には当地の地名である「中ノ段」についての考察が、町の文化財保護審議会の秋田道雄氏によって、この庚申塔に刻まれた銘文を交え紹介されています。

地名考、「地形と地名」、『上の段、中の段、下の段』
徳島自動車道の上り線の吉野川サービスエリアを過ぎて北 (山手)に目をやると吉野川中流域北岸によく見られる、河岸段丘状の地形が見られる。
(高速バスの左側車窓)。
一段目は平坦に県道の北まで、二段目は吉野川の側方浸食よって形成されたという小涯を上がり二百メートルほどまた平坦に、三段目も二百メートル近く讃岐山脈の山腹まで平坦に続いている。北から「上の段」、二段目が「中の段」、一段目が「下の段」と言い、地名あるいは自治会名として使われている。
 事実、大正九年度足代村議会の議案第二九号に「区長設置に関する件」と
して「庶務便宜ノ為メ左ノ如ク本村ニ区ヲ画シ各区ニ区長設置スルモノ
トス」とあり、第八区は下の段、第九区は中の段・土井、第十区が上の段となっている。
 しかし、地形をよく表した「上・中・下の段」の地名と言い切れるほど単純ではないように思われる。
 まず、小字名として「上ノ段」と「中ノ段」はあるが、「下ノ段」は使われていない。
 また、『上の段』の呼称は、「うえのだん」と言うより「うわのだん・うわんだん」。『中の段』は「なかのだん」より「なかんだ」。『下の段』は「したのだん」である。
 加えて高齢者が『上の段』のことを「うわなかんだ」、「中の段』のことを「したなかんだ」と言うのをまれに耳にする。
 さらに、中ノ段集会所の前に正徳四年(一七一四)建立の庚申塔が立って
おり、下部に「上中段惣中、下中段惣中」とある。その脇の享保七年(一七二二)建立の燈籠にも「下中之段、上中之段」とある。
この集会所が建てられたのは昭和五十五年のことで、戦後までこの地に秋田家の所有であったと言う薬師堂と庵があり、その西隣一帯が秋田家屋敷跡である。この秋田家は江戸中期ころから台頭し、江戸後期には組頭庄屋を務めている。また、加茂山騒動で打ちこわしにも遭っている。
 『中の段』は、庄屋が居を構えるような中心地、主要地を表す「なかんだ」から、「中之段」となり、「上中之段」と「下中之段」の表記が残された。
 「上の段」「中の段」「下の段」は、地形を表した地名ではあるのは、間違いないが、三つの段の整然さは「庶務便宜のため」と言う政治的思惑を感じさせないだろうか。
 これらの地名の成り立ちは、今も呼称と使われている「なかんだ」が元になったとは考えられないだろうか。だから「うわなかんだ」と「したなかんだ」の呼称もかすかに残っている。
 文字よりも発音の方を重視すれば、こんな地名考も成り立つ様に思う。
東みよし町文化財保護審議会
秋田道雄

https://www.town.higashimiyoshi.lg.jp/fs/2/6/1/1/5/3/_/________163_.pdf 12頁(閲覧日:2024年8月22日)

 


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地名考にも登場した秋田屋敷跡は「秋田屋敷跡」と刻まれた標柱の存在によって現在に伝えられています。

集会所から西方に少しいったところの田んぼ脇に建っています。

中ノ段集会所の所在地