徳島県美馬市穴吹町三島字舞中島の路傍(訪問日:2024年8月11日)舞中島(まいなかしま)集落の庄舞地区に新興住宅街があり、その入り口にあたるところ、大木のそばに石塔群があります。半分ほどは五輪塔などの墓塔で、もう半分が民間信仰塔です。
後者の中にとても珍しい庚申塔が紛れています。中央の覆屋付きのものがそれなのですが、まずはその左右の庚申塔から掲載します。
文字庚申塔①
刻銘「延寶元丑年十二月廿五日(1673) / 奉供養庚申待二世安樂 / 種子〈ウーン〉」
笠付角柱型、彫像(日天月天)
文字庚申塔②
刻銘「寛文八戊申年十一月吉日(1668) / 美馬郡舞中嶋村 / 奉造立御申待供養一座諸願成就所 / 種子〈ウーン〉」
角柱型、彫像(日天月天、蓮華)
件の庚申塔。前掛けや帽子を召しており、地元の人々に愛されているのが伝わってきます。
ただその像容は青面金剛とは似ても似つかないものです。
実はこちらは猿田彦大神の丸彫り刻像塔で、この地域特有の猿田彦大神系庚申塔に分類されます。
美馬市の広報誌『広報みま2013(平成25)年7月号 No.101』には本塔について解説を付しており、
美馬の歴史と文化57・・・舞中島地区の猿田彦立像
舞中島地区の南西部、舞の北に、庚申塔など10基以上の石造物が集まっている場所があります。その中に、一体のお地蔵さんが佇んでいます。台座には、「安政六年」や人名が刻まれており、造られたおおよその時期などを知ることができます。
「お地蔵さん」とはいえ、大きな目と高い鼻、あごには立派なヒゲをはやし、榊の枝とおぼしき棒状の持物を手にするなど、地蔵らしからぬ姿です。
平成22年に舞中島地区で文化的景観保存調査が行われた際、徳島大学の高橋晋一さんから、これが「猿田彦」という日本神話に登場する神の像だと教えていただきました。ちなみに、丸彫の「猿田彦」立像は、あまり見かけないとのことです。
例の少ない像ということは、地区の人々が石工に特別に注文して造らせたものでしょう。地区の繁栄や人々の仰心をうかがい知ることのできる歴史資料の一つです。
とあります。
また、同誌2010(平成22)年11月号 No.69にも以下の記述が見られます。
美馬の歴史と文化27
路傍の石造物4 庚申塔
光明真言塔と同じく、道の脇などに見ざる言わざる聞かざるの三猿や手のたくさんある仏像などが刻まれた石造物を見たことがある人もいるかと思います。これは庚申塔と呼ばれる石造物で、地域で庚申講を一定期間継続して行ったことの記念として建てられたものです。
庚申講とは、道教の思想に基づくものであり、神様に人間の行った悪事を告げ口にいく虫がいるとじられていました。この虫は、庚申の日の夜人間が寝ている隙に告げ口にいくので、これを防ぐためにその日にみんなで集まって徹夜などを行ないました。これが庚申講です。
庚申講の記念として建てられた庚申塔には、青面金剛や猿田彦の像が彫刻されていることが多く見られます。県内では青面金剛のものが多いようですが、穴吹町の舞中島には、県内でも珍しい猿田彦の像による庚申塔も見られます。
刻銘「安政六未年十二月吉祥日(1859) / 住友喜三左エ門(ほか6名略)」御尊容(立像、丸彫型)、その他像容・彫像(若木)
開国前の日本人が想像して描いた外人みたいな顔立ちです。鼻が異様に大きいのは記紀の記述によるためでしょうか。
奉献石。何を献じた記念碑かは定かではありません。光明真言塔
刻銘「明治十年丑八月吉祥日(1877) / 世話人住友某(ほか複数名略) / 奉供羪光明真言一百万遍塔」
青石塔婆型塔身は大きく不安定なためかベルトで固定されていました。石手水鉢。明治二十一年(1888)の寄進。
所在地