石仏石神を求めて

おもに石仏・石神などの石造物を探訪

天保飢饉供養塔と廻国供養塔(伊勢市小俣町明野・明野庚申堂)

三重県伊勢市小俣町明野の明野庚申堂(訪問日:2024年8月15日)f:id:nagatorowo2:20240908233858j:image伊勢街道沿い、明野庚申前交差点のすぐ脇に、基壇を含めると3メートルはゆうに超える石塔が建っています。

そばには卒塔婆があり、「南無阿弥陀佛為本蓮社願誉上人徳浄大和尚荘厳浄土供養之塔 一入法句 令和五年三月二十九日建之」の墨書が認められます。
また、その背後に解説板も設けられています。f:id:nagatorowo2:20240908233844j:image

解説板 徳浄上人千日祈願の塔
 むかし、一人の僧が勢州明野の庚申堂を霊場(根城)として修行していたという。
 天保の頃、村が大飢饉にみまわれ、悪疫大流行、世情騒然となったとき、この僧が村民の窮状を救わんものと伊勢両神宮に千日の間、村民の無事息災祈願のため素足で日参された。
 その後、明野村は疫病もなく、盗難、火災もなく平安に暮らすことが出来たという。この僧の名を徳浄光我上人といい、千日祈願の徳を称え、明野や宇治山田の人々が世話人となって建立したものである。
 裏面に満行、天保七年(一八三六)丙申年三月廿九日とある。
一九九四年八月
伊勢市教育委員会

 

他にも徳浄上人および本塔について記している文献をいくつか見つけたので、それぞれ引用します。

徳浄上人と大仏山
 度会郡小俣町明野の庚申堂の一画に、高さ三・二メートルもある大きな碑がある。俗に「経典供養塔」、あるいは、「千日祈願の塔」といわれている。また、この碑を、「上人さん」と呼んでいる。
 この碑は、明野第二自治区の西の端、大仏山入口の左側に建っている。天保七年(一八三六)、に明野住民によって建てられたもので、陣の下段には、「専念講中」とある。かつてこの宗派による講の人々が、徳浄上人の遺徳を慕い、記念して建立したものである。
 昭和五十二年、上村芳夫氏の解読によって、明らかにされたもので、種文の内容は、次のようなことである。
 昔、一人の僧が伊勢の明野村に来て、庚申堂を霊場として修業していた。この僧が徳浄上人である。
 ある年、村に大飢饉が起き、悪疫が流行して、世情が騒然となったとき、この上人が、村民の窮状を救わんとして立ち上がった。
 浄土律宗行者であった徳浄上人は、素足で雨の日も風の日も、雪の日も霜の日も、笠もかぶらず、道中水害の難も乗りこえ、明野住民の無事息災を祈願のため、伊勢神宮に千日の間日参した。また、朝熊岳百日、二見岳百日登った。上人は常に三部経を唱え、日々月々、万民一切の安全を祈り、無事千日を終えた由緒書がこの碑文に刻まれている。
 この上人のおかげで、明野は火災や盗難、さらに流行病から免かれ、住民が安心して暮してこられたのだと、古くから言い伝えられている。
 また、明野には、昔から、「ナンマイダー・センマイダー」という念仏行事がある。この念仏に合わせて、大きな数珠を繰って、町内を練り歩き、村の安全を祈った。毎年盆の八月十五日には、老若男女が集まって、老人の先達により、念仏を唱え、初盆の家の前で、霊を祀る行事をする。
 このほど老人クラブ南明寿会の方々によって、この徳浄上人のことが明らかになった。

郡敏子 著『伊勢の百話』,112-113頁,古川書店,1983.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9571164 (参照 2024-09-09)

 

(前略)椎の木から約一〇〇メートルさらに直進すると、大仏山火葬場入口の街道右側に、寛政年間(一七八九〜一八〇一)と伝えられる庚申堂がある。境内には堂の外に街道を正面にして、俗に、千日祈願の塔・上人さんと呼ばれる高さ三・二メートルの石碑が立っている。北側正面に「三部妙典経、南無阿弥陀仏 徳浄(花押)  一字一石塔」、西面に「両宮千日之間浄土律宗行者 徳浄晴曇雨霜雪共日参之霊場 心一とすじにたのみをかけよはかなくも 石にほりおく筆のあとかた たよりなき身とぞおもわばひとすじに みだのゐのりに二ツあらまし」、東面に「奉祈念以我経一心称名月照月光天子将軍国土万民一切寿楽」と刻まれており、南面すなわち碑の裏面には、「言に曰く」として、徳浄上人の難行苦行を行う由縁をしるしている。
 庚申堂を霊場として修行していた徳浄上人が、大飢饉・疫病の大流行にみまわれた村民の窮状を目の当りにして、救済に一念発起し、伊勢両宮に雨・風・雪の日もいとわず、明野住民の無病息災を祈願して、千日の間、素足で日参された、と碑は伝えている。天保七年(一八三六)の年号から、天保の大飢饉であろうか。その後、明野は徳浄上人のおかげで火災・盗難・流行病からのがれることができた、と今も明野近隣に語り継がれている。この碑は、上人の千日祈願成就を記念して建立されたもので、碑の二段目に二六名の世話人と、「専念講中」の文字が確認できる。

三重県教育委員会 編『伊勢街道 : 朝熊岳道・二見道・磯部道・青峰道・鳥羽道』,116-117頁,三重県教育委員会,1987.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12062056 (参照 2024-09-09)

 

伊勢街道の小俣
(前略)小俣町にも伊勢街道に関係する場所がいくつかあり、明野にある新出の庚申堂などが挙げられる。この庚申堂を霊場として修業していた徳浄上人という人が、大飢饉、疫病の大流行によって、村人たちが困っているのを見て、救済のために、伊勢両宮に千日の間、日参した。そのおかげで、明野は火災、盗難、流行病から逃れることができたといわれている。

https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11636446/iselib.city.ise.mie.jp/letter_pdf/2017nendo/no183.pdf (閲覧日:2024年9月9日)

 

前置きが長くなりましたが、本題の供養塔の銘文に移ります。ただ、揮毫内容が達筆すぎる且つ逆光での撮影のため、完全な判読には至れませんでした。

なので前掲の資料中で述べられた銘文を一部そのまま抜粋します。f:id:nagatorowo2:20240908233908j:image天保飢饉供養塔(経典供養塔、六字名号塔)


f:id:nagatorowo2:20240908233853j:image

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刻銘「維時天保七丙申年二月廿九日(三月廿九日?) / 中之地蔵町専念講中 / 徳浄〈花押〉 / 奉祈念以我経一心稱名月照月光天子将軍国土万民一切寿楽 / 両宮千日之間浄土律宗行者徳浄晴曇雨霜雪共日参之霊場心一とすじにたのみをかけよはかなくも石にほりおく筆のあとかたたよりなき身とぞおもわばひとすじにみだのゐのりに二ツあらまし / 三部妙典経一字一石塔 / 三界萬霊 / 南無阿弥陀佛」

山状角柱型(角柱型?)

背面の由緒は全く分からなかったので、もし判読できる方がいらっしゃいましたらご教示願います。

飢饉供養塔のそばには小ぶりの石塔もあり、こちらは廻国塔です。本塔についても記している文献(前掲)がありますので、また引用します。

上人碑の右隣り下に、「寛保元年(一七四一)六月三日 大乗妙典六十六部廻国供養願主小俣住人直念」と刻んだ供養碑がある。高さ七〇センチ足らず
である。直念が書写した経文を、霊場に納めてまわる廻国巡礼を果した記念であろうか。あるいは、飢饉・疫病で亡くなった村人を供養するためか、定かでない。直念の供養塔は、伊勢市宇治から登る朝熊岳道にも建てられている。

三重県教育委員会 編『伊勢街道 : 朝熊岳道・二見道・磯部道・青峰道・鳥羽道』,117頁,三重県教育委員会,1987.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12062056 (参照 2024-09-09)

f:id:nagatorowo2:20240908233903j:image六十六部廻国供養塔

刻銘「寛保元年六月三日(1741) / 願主小俣住人直念 / 大乗妙典六十六部廻國供養」

駒型


f:id:nagatorowo2:20240908233834j:image庚申堂の境内にはいくつか木々が生えています。入り口にあたるところにある木の根元には看板があり、「この森林づくりは令和5年度緑の募金交付事業により実施しました 令和5年5月 明野第12自治会ボランティア団体 公益社団法人三重県緑化推進協会」と記されています。f:id:nagatorowo2:20240908233839j:image堂手前には木製の鳥居が建てられ、一本の若木を祀っているようです。柱や貫には「令和元年十一月吉日 奉納 三星輝昌謹建」と墨書。今上陛下の御即位記念のための建立と思われます。f:id:nagatorowo2:20240908233848j:image庚申堂には掃除用具を入れる箱があり、「上人さん清掃用ごみ袋入 南明寿会」と記されています。

先の文献の通り、現在でも徳浄上人を景仰されている方々がいらっしゃることが伝わります。

末永く上人の徳業が世に伝わるのを祈念するばかりです。

▼堂内の庚申塔について

nagatorowo2.hatenablog.com

明野庚申堂の所在地