東京都文京区春日2丁目の庚申坂(訪問日:2025年2月16日)
春日2-9と小日向4-1との境におよそ80段の階段のある坂があります。ここは俗称「庚申坂」という場所で、古くからそう呼び習わされてきたそうです。
由来は『新編江戸志』によると、坂の入り口の右側にあった二株の榎の下に庚申塔が据えられていたことに因むとのこと。しかし、その庚申塔は享保年間ごろに亡失したため、同書が編纂された寛政年間時点で既に庚申坂という名前を知る人はほぼいなかったといいます。
また、この坂を切支丹坂と当時の人々は呼んでいたそうです。
坂上に解説板がありました。
坂の中段、左に折れ曲がった箇所からの1枚。わりかし勾配があります。
坂の最上段からの1枚。ガード上には小石川車両基地の線路と電車が見えます。
2025年3月7日に再訪したところ、区が設置したプレートが欄干(?)に取り付けてありました。「第23回 文の京景観賞都市景観部門 庚申坂 文京区」と記されています。
続いて切支丹坂に向かいます。庚申坂を降りてガード下を西方に進みます。
ガードのトンネルを抜けると緩やかな坂が西方に伸びており、その両脇は富裕層の方が住まう邸宅やマンションが立ち並んでいます。ここが切支丹坂です。
切支丹坂はキリスト教徒を拘禁した切支丹屋敷に因む坂名で、文京区観光協会のサイト
切支丹坂 | 文京区観光協会(2025年2月17日閲覧)によると幽霊坂とも呼ばれるそうです。
昭和の頃までにこの坂の名前も忘れ去られていて、庚申坂を切支丹坂と呼んでいたように、色々と混同してしまっていたようです。
坂の最上部からの1枚。
坂の中途からの1枚。ここからも丸ノ内線の車両と線路が見えます。
電柱番号札の標識名には「切支丹支」の文字が認められます。
坂を上りきったところにある切支丹屋敷跡(東京都指定旧跡)。キリシタンやバテレンを収容した当該施設は正保三年に建てられ、享保九年に火災により焼け落ち、以後再建されることなく寛政四年に廃止になったとのこと。
再びガード下を通り、庚申坂下に戻ってきました。
ここで先ほどの解説にあった享保年間ごろに姿を消したという庚申塔について気になり、付近を散策することにしました。
自前の庚申塔マップを参照すると、近くにある藤寺こと伝明寺(傳明寺)に庚申塔所在と打鋲されていましたので参拝しました。
門前に地蔵菩薩塔と向き違いで並んでいる板碑型庚申塔を発見しました。紀年銘を確認すると寛文十年(1670)と読めます。
庚申坂脇にあった庚申塔は享保年間に無くなりました。従って、その造立年は享保より前ということになります。管見ながら、この付近に所在する庚申塔で享保以前に建てられたものは本塔以外に確認できませんので、もしかするとこれこそが元々庚申坂にあった庚申塔なのではないでしょうか。
もちろん、区外など全く異なる場所から運ばれてきた可能性もあるため憶測の域は出ません。
最後に茗荷谷の茗荷坂に設置されていた看板を見てみると、ここにも史跡や観光スポットも共に庚申坂が記されていました。金子薫園の詠んだ句も併記されています。
参考文献:三輪善之助(1935)『庚申待と庚申塔』
庚申坂の所在地
切支丹坂の所在地



