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本州最北の徳本名号塔(五所川原市)

青森県五所川原市川端町10の千立山願昌寺(訪問日:2024年1月4日)

f:id:nagatorowo2:20240126155823j:image本堂の向かって右手前に地蔵堂があります。
f:id:nagatorowo2:20240126155812j:imageそのそばに1基の石塔がひっそりと佇んでいます。こちらは令和5年に市の有形文化財に指定された「立山願昌寺念仏供養塔」です。

特筆すべき点はこの石塔が本州最北の徳本名号塔であることで、徳本行者の活動範囲が津軽地方(陸奥国)にまで及んでいたと分かる極めて貴重な一次資料です。

本塔の解説は以下の通り。

 嘉永2年(1849) 3月6日、毛内宇兵衛の妻・いさによって建立された南有無阿弥陀仏の石碑、念仏供養塔です。元々は岩木川の近くに建てられていたようですが、大正時代の岩木川改修工事のため、願昌寺に移転しました。
 碑文に刻まれた「南無阿弥陀仏」の文字は、徳本(とくほん)という人物の揮毫によるものです。
 徳本とは、徳本上人、あるいは徳本行者とも呼ばれています。徳本上人は、寛政6年(1794) 頃から日本各地を巡り、人々を救うため「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、仏の教えを広めたといわれています。生涯を民衆の中に生きた念仏行者(浄土宗)として知られる人物である。徳本上人の文字は、丸みを帯び、終筆が跳ね上がるため非常に縁起が良いとされ、「徳本文字」と呼ばれています。
 徳本上人の念仏供養塔(名号碑)は、巡教された土地に多く建てられています。その数は和歌山県内におよそ170基、信濃(長野県)に200基、武蔵(東京都・埼玉県) 50基、越中(富山県)30基が確認されています。そのほか常陸(茨城県)、下総(千葉県・東京都)、相模(神奈川県)など広く日本各地に分布します。また、信者は近畿、東海、北陸、信州、関東地方にも及び現在も「徳本講」として引き継がれ、その信仰は今も庶民の間で生き続けています。
 当地域では、このような徳本上人の念仏供養塔は非常に珍しく、当地域の信仰を知る上で大変貴重なものであり、市指定に値するものです。また、文化財保護審議会が実施した県内の悉皆調査の結果、市内2基が本州最北であることが判明しました。

千立山願昌寺念仏供養塔(ちりゅうざんがんしょうじねんぶつくようとう) - 五所川原市 (2025年4月25日閲覧)

上の解説では言及の浅い毛内宇兵衛の妻いさについては、『五所川原町誌』に詳細が記述されていますので引用します。

毛内比丘尼略伝
徳本行者の碑を建立した毛内宇兵衛の妻いさ(弘前藩士織田虎五郎娘)は二十四才の時京都の智恩院に行き当時出家の念願であったが良夫ある身に依り容れられなかつた。そこで髪を断ち当麻中将姫の池へ参り其の水で頭を洗って国元へ帰ったが、不思議にも其の髪が六尺に達した。文久元年良夫宇兵衛が死亡したので翌二年再び智恩院に行き遂に初一念を貫徹した。後西郡下繁田村の沼傍に小庵を結び、沼の蓮から糸を取りて経とし自分の髪毛を緯にして三尊来迎仏教板を編み、智恩院、善光寺、青森正覚寺等へ寄進した。一幅は今猶私の家で保存して居るが智恩院へ寄進の掛図も現存してゐる。明治二十五辰年六月十二日八十三才で死亡、法名顕光院彗誉忍法智明善大姉。(曾孫粂吉談)
備考
ー、糸を取った蓮の実で拵へた数珠(百万遍用長さ二十八尺)と毛内比丘尼の木像(丈け一尺二寸)が願昌寺に在る。

五所川原町編(1982)『五所川原町誌』286-289頁、国書刊行会

 


f:id:nagatorowo2:20240126155815j:image念仏供養塔(徳本名号塔)

刻銘「嘉永二己酉年五月六日建之(1849) / 施主毛内宇兵衛妻 / 南無阿弥陀佛」※五所川原市教育委員会嘉永二己酉年三月六日造立とする。

自然石型、彫像(開敷蓮華)
f:id:nagatorowo2:20240126155819j:image南無阿弥陀仏の六字名号。いわゆる徳本文字で刻まれており大変縁起がよろしいものです。

実はこの石塔が本州最北の徳本名号塔ではありません。ここより北にある寺院に真に最北と呼べる徳本名号塔があるのです。

しかし、令和5年の五所川原市教育委員会の定例会資料によると、その寺院は一般向けの参拝および見学を行っていないため、写真掲載等の情報発信は控えるよう申し入れがあり、願昌寺の石塔が最北ということになっているのです。

先の解説にあった「市内2基が本州最北であることが判明しました。」という表現はそのためです。

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願昌寺の所在地