修験道の本場、出羽の羽黒山と熊野の大峰山と並び、日本三大修験山の一角に数えられる筑紫の英彦山(ひこさん)。1975年、英彦山の修験道関係者である高千穂徳子氏宅にて、同地の調査に訪れていた後藤淑氏(故人。昭和女子大学名誉教授)によってある一通の文書が発見されました。
その文書には『守庚申夜日記』という題がつけられ、題を含めると縦18行にわたって人の手によって墨書きされています。中身を解読すると、大永4年(1524年)に当地の山伏たちの間で行われていたであろう庚申の夜の儀式の内容が記されているようです。管見ながら、本文書について触れられている文献が1、2ほどしか目に留まりませんでしたので、解説と備忘録を兼ねてここに駄文を記します。
本文書は後藤氏が発見を報じられた「守庚申の史料」『民俗と歴史』第1号、民俗と歴史の会、1975年、22頁に写真が掲載されており、それを元に翻刻した文は以下の通りです(本ブログの記述式の都合上、横書きで記す。振り仮名は文の末尾に()内に示す)。

守庚申夜日記
一夜ニ三千返先一千返唱テ
向南ニ云
彭侯尸彭矯尸彭質尸(ハウカウシハウケウシホウシツシ)
我ハ是天仙汝ハ是地鬼疾カニ(スミヤ)
走他方去又不来帰後皷(タ タタク)
歯ヲ九通〆云
聻離我身々々々々々々々(エイリカシン)※聻は⿱斬耳。
ヨイニ一度夜半ニ一度暁ニ
一度已上三度如是可唱
真言曰
唵呼真齢々々々毎怛哩(ヲンコシンレイ マイタリ)
々々々娑婆訶(ソワカ)
青面金剛咒
唵婆帝吒摩訶々々嚕烏呼(ハテイタマカ ロウコ)
囉阿盡吒帝ソハカ(アラアジンタテイ)
初中後三百反
大永四年六月廿六日
本史料にはいわゆる「ほうこうしのうた(庚申夜誦頌)」や庚申真言、青面金剛大心呪が漢字と仮名を交えて記されています。そして叩歯を9回するといった道教的な所作も併せて記述が見られ、日本の中世期の庚申信仰の行事がいかなるものであったかを物語っています。
また、その内容は中世期の宗教的な守庚申、すなわち庚申待に多大な影響を与え、のちの各種庚申縁起の下地になったとされる『老子守庚申求長生経(庚申経、守庚申経とも)』と被る部分が少なくなく、本史料もそれに基づき著されたものと推測されます。なお、『老子守庚申求長生経』は『太上三尸中経』をはじめとした道教に伝わる三尸説関連の書籍の抜き書き(抄録)で、その編述は11世紀に日本において行われ、園城寺の加持祈祷専門の僧侶が携わったと窪徳忠氏は考察しています(他にも吉岡義豊氏、永井義憲氏、小花波平六氏らによる異説も唱えられていますが、煩を避けるためここでは窪説のみを掲載)。
さて、『守庚申夜日記』の最も特筆すべき点は、その編述の年代および、最後から4番目の行に付記された「青面金剛咒」のふたつの箇所にあります。
まず、最後の行に本文よりやや小さく記された年月日は「大永四年六月廿六日」であり、本文書が中世後半に著されたことが窺えます。大永4年(1524年)は既に戦国時代に突入しており、前年には寧波の乱が勃発し、日本社会全体の動きが活発化していた時代です。
少し下って15世紀後半からはそれまで宮中の貴族が中心となり行われていた御庚申、庚申御遊などと呼ばれる守庚申の行事は徐々に民間にも浸透します。1471年には日本最古とされる庚申待板碑(申待板碑)が現在の埼玉県川口市において造立されていることからも分かるように、各地で庚申講が組織されていきました。
次に「青面金剛咒」という部分です。青面金剛に関する真言を総じて青面金剛呪といい、咒は呪と同義です。青面金剛呪は庚申真言の一種であり、縣敏夫氏によると、青面金剛小呪、青面金剛立身呪、青面金剛心呪、青面金剛大心呪、青面金剛歓喜呪、青面金剛解穢呪、青面金剛大呪の7種類が存在するそうです。これらはいずれも修験者が用いる『庚申待之大事』や全国各地の庚申塔(これらを刻むものを庚申真言塔と呼ぶ)に見られるものです(例:加須市にある庚申真言塔を兼ねる青面金剛像庚申塔)
庚申=青面金剛という図式は江戸時代に入ってから一般化します。それまでは青面金剛というのは庚申の夜に拝む諸仏のうちの一尊に過ぎませんでした。そのことは16世紀までの庚申縁起を通覧しても分かりますし、「青面金剛」単独の文字塔が宮崎県西諸郡高原町広原の天正19年銘の文字庚申塔(1591)、刻像塔が福井県吉田郡永平寺町の正保4年銘の青面金剛像庚申塔(1648)までしか遡れない点からも明らかです。
9世紀初頭から守庚申が開始していたとされる宮中においても、明確に庚申の本尊を拝んでいたと分かる記述は『お湯殿の上の日記(御湯殿上日記)』文禄4年4月17日(1595)庚申の条にある「(前略)かうしんのほそん、きりかくしのまへにかけらるゝ。色々の物ともまいる。」が最古であり、しかも、この「かうしんのほそん(庚申の本尊)」というのが何の仏尊であるかは定かではありません。少なくとも、庚申の、というのですから、庚申縁起に登場する文殊、薬師、青面金剛、釈迦、六観音、阿弥陀いずれかの諸仏であろうと久野俊彦氏は考察しています。
しかしながら、本文書はまだ青面金剛が庚申信仰の正本尊としての地位を確立する以前の16世紀前半に著されており、修験道の一大霊場である英彦山で修験者が編述の上、その一節に青面金剛咒を記し、それを用いていたと臆測して大過ないということ。それは、青面金剛という仏尊が一般に広く受容される以前から、修験道においては正本尊化が始まっていたことを示すものではないでしょうか。
まとめると、『守庚申夜日記』という史料は、宮中および一般に青面金剛と庚申信仰の結びつきが強まる中世末期〜江戸時代初頭以前から、少なくとも九州地方の英彦山を中心とする修験道においては青面金剛を庚申の正本尊化する動きがあり、その一端を今に伝え、修験道と青面金剛ないし庚申信仰の繋がりを中世後半まで遡れることを示す好資料なのではないでしょうか。また、その内容は『老子守庚申求長生経』が基礎となっていたことが推測され、同経典の中世期までの守庚申および庚申待に甚深な影響を及ぼしたとする考察を、さらに補強するものでもあるのではないでしょうか。
以上で終わります。なるべく誤謬がないよう努めましたが、それでも私の理解の不足や読むべき記述を見過ごしていたりすると思いますので、コメントでご指摘くだされば幸いでございます。
▼参考文献
- 後藤淑「守庚申の史料」『民俗と歴史』第1号、民俗と歴史の会、1975年
- 庚申懇話会『庚申:民間信仰の研究』同朋舎、1978年
- 東久留米市教育委員会文化課『くるめの石仏』東久留米市文化財資料集7、 東久留米市教育委員会、1979年
- 窪徳忠『庚申信仰の研究』上下巻、原書房、1980年
- 窪徳忠『道教の世界』学生社、1987年
- 小花波平六『庚申信仰』民衆宗教史叢書第17巻、雄山閣出版株式会社、1988年
- 縣敏夫『図説庚申塔』揺籃社、1999年
- 久野俊彦「縁起と民間信仰「庚申縁起』と庚申信仰の変容」『絵解きと縁起のフォークロア』2014年
- 石川博司『新東京都庚申塔事典』庚申資料刊行会、2015年



